平家の落人が開いたという四国山中の旧別子で、銅の鉱床が見つかったのは元禄3年(1690)のことだ。周辺は天領で、どこの藩にも属していない。いち早く情報をキャッチした大阪の銅業者《泉屋》の3代目、住友友信は早速重役と技師を現地に派遣する。住友のプロジェクトチームは人跡未踏の急峻な山中を隈なく探査した末、遂に有望な鉱脈を発見。幕府に願い出て採掘権を獲得した。こうして別子銅山の歴史が始まったのである。元禄11年には13000トンの粗鉱(銅にして1500トン)を産出、世界最大の銅鉱山となり、別子の里の400人の人口は1万人に膨れ上がった。ゴールドラッシュならぬカッパーラッシュである。
新居浜市山根の大山積神社と隣接して建つ別子銅山記念館(*)には、さまざまな鉱山資料が展示されている。展示品の中には江戸時代に精錬された銅塊がいくつかあり、それらはいわゆる銅色でなく、見事な赤い色をしている。現代の技術では、高純度の銅は造れても微妙な温度の関係からここまでの赤色は再現不可能で、まさに名人芸なのだそうだ。ちなみにカッパーが銅(あかがね)、銅メダルや銅像のブロンズは青銅(からかね)で銅と錫の合金である。
住友家の初代、住友政友は涅槃宗の高僧だったが、秀吉が宗教を整理したとき涅槃宗は他宗に統合されたため宗教に見切りをつけ、冨士屋嘉林と名乗って京都で書店と薬屋を始めた。この政友の姉の夫が《泉屋》こと蘇我理右衛門で、同じ京都で銅を商っていた。理右衛門は南蛮吹きと呼ばれる銀銅分離技術の実用化に成功し、他の業者が金銀を含んだままの銅を販売していたのに比べ、大きな利潤を上げていた。あの「国家安康」の方広寺釣鐘の銅82トンを納入したのも、この理右衛門である。理右衛門の長男、理兵衛友以(とももち)は政友の娘と結婚(いとこ同士)し、住友家の名と実家《泉屋》の家業を継いだ。泉屋の商標だった「菱井桁」はこの時から住友家の家紋となり、今も住友グループ各社で使われている。また、住友グループ幹部で構成する「白水会」は「泉」の字を分解したものである。
住友家の二代目となった友以は、大阪の陣の後、落ち着いてきた世情を考慮し、これからの商売には京都よりも水運に恵まれた大阪の方が有利と判断。大阪心斎橋に近い鰻谷に銅の精錬所を設けた。約300人の職人を抱えて銅の輸出を推進し、全国シェアの3分の1を占めるに至った。また各地で銅山の開発に乗り出すと同時に、綿糸や綿織物、薬などの輸入、さらには両替商も手がけた。ちょうど同じ頃、三井高利が江戸と京都に越後屋をオープンした。後世ライバルとなる2つの企業グループがここに産声を上げたのだ。
愛媛県別子山村。足谷川沿いに旧別子の山道を登って行くと、林の中から古い石組が次々に現れる。険しい山と石組の取り合せは実にインカ的だ。中でもユニークなのが、最初の坑道「歓喜坑」に近い足谷山の頂上に据えられたコの字型の石組「蘭塔場(らんとうば)」である。蘭塔は墓の意味で、元禄七年の山火事の犠牲者を慰霊するものだ。この火災では元締めの杉本助七をはじめ132人もの人が亡くなった。
「蘭塔場」は南米アンデスの尾根に並ぶ石積のチュルパ(墳墓)を思わせる。インカ帝国は初代マンコ・カパクから13代アタワルパまで、標高3400メートルの首都クスコを中心にアンデス山中の山岳地帯に栄え、最盛期には南北500キロの広さ、1千万とも2千万ともいう人口を擁した。切り石を組合せたインカの記念碑的建造物は寸分の隙間もなく築かれており、今でも剃刀の刃すら差し込めないほどだという。
さて、銅山の経営は必ずしも順調ではなかった。同じ鉱脈に新居浜側から西条藩の後押しで立川銅山が開発されており、境界争いが絶えず、銅の搬出にも西条藩領を避けて、険しい山道を大きく迂回しなければならなかった。それは別子開坑から70年余り後の宝暦12年(1762)、別子が立川を吸収合併して、銅山峰越えの搬出ルートを確保するまで続いた。これとは別に、自然の災害も鉱山を襲った。元禄7年の山火事のほか、台風などの水害で山あいの住居や鉱山の施設が幾度も流された。
後年、別子の銅は海外貿易用の幕府の御用銅に指定され、買上げ価格は低く押えられ、産銅量も低下して、住友家では鉱山の維持に苦しんだ。また、大資本は政商としての一面も併せ持つため、大塩平八郎の乱では貧困に喘ぐ市民たちの標的とされ、大阪の住友の蔵などが焼き打ちに遭った。それでも別子は住友の屋台骨を成していた。
平地のない旧別子では、住宅や精錬所などの施設を建造するため石を積んで小さな平地を造った。谷川に石でアーチを架け、その上に土を盛ることもした。材料の石は銅を掘ればいくらでも出てくる。施設の中でも明治22年(1889)建造の小足谷劇場は回り舞台を持つ二千人収容の大劇場で、毎年五月の山神祭には京都から歌舞伎の名優を呼んでいた。そのほか、鉱山事務所や神社、接待館、病院、郵便局、村役場、小学校(**)、料亭、雑貨店、さらには酒と醤油の醸造所までが、この山の中に揃っていた。
「旧別子」とは別子山村の北西部一帯を指し、元禄四年(1691)から大正5年(1916)までの225年間に亘り別子銅山の採鉱と精錬の中心地であった地域のことだ。今も平地はほとんどゼロ。別子山村の人口は、銅山発見前は400人程度、開坑後数年で1万人近くに急増し、明治後期には12400人と、愛媛では松山に次ぐ県下2位の人口を擁していた。その後、採掘の拠点が山麓の新居浜市東平(とうなる)に移り、大正5年には旧別子の施設はすべて撤去され、跡地の石組には植林がされた。現在の人口は312人(1993年10月末)で、愛知県北設楽郡富山村に次いで全国2位の小さな自治体である。村は300年前の静けさに戻ったわけだ。
別子の銅山峰までは、新居浜市東平側と別子山村側から歩いて登れる。どちらも約2時間、危険性の少ない登山道として人気が高まっている。東平ルートの角石原には銅山峰ヒュッテが置かれ、別子山村ルートの途中にはダイヤモンド水と呼ばれるオアシスがある。昭和25年にここでボーリング調査をした際、回転ロッド先端のダイヤモンドビットがはずれて回収できず地中に残ったままなのだ。穴の途中の地下80メートルからミネラルウォーターが自噴している。
江戸時代には採鉱から精錬までを山中で処理していたが、採鉱拠点は東平、そして現在テーマパーク《マイントピア》のある端出場(はでば)へと移り、精錬場所も新居浜市山根から、臨海地区を経て四阪島へと変った。山根の精錬所跡地は従業員の福利厚生と市民の健康増進のため、グラウンドとして整備される。作業はすべて作務(さむ)と呼ばれる、労使共同のボランティアで行なわれた。作務衣(さむえ)の作務である。このグラウンドでは大規模な運動会や相撲大会が催された。特に相撲は人気があり、力自慢の鉱夫たちによる玄人はだしの熱戦がくり広げられた。銅山記念館には特注した本物顔負けの豪華な化粧まわしが展示されている。1万数千人が収容可能な石積のスタンドの一部は今も健在で、山根グラウンドとして市民に親しまれている。
昭和48年、別子銅山は282年の歴史の幕を閉じた。地底深くからの採掘では採算がとれなくなったからだ。総出鉱量3千万トン、銅にして72万トン、坑道延長は700キロにも及ぶ。植林された山はその後、住友林業の森になった。金属・銀行・商事…企業グループの多岐にわたる事業の種が、この山で芽生えた。
※銅山記念館では、別子銅山のすべてを知ることができる。屋根一面にサツキが植えられたユニークなミュージアムだ。
※※住友別子小学校は明治6年(1873)創立で、日本最初の私立小学校である。大正5年(1916)に廃校になった。